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同年9月、関ヶ原の戦いになると、家康ら東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃すると、留守政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)[5]。9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。 政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、仙道方面への侵略を開始、10月6日宮代で本庄繁長の上杉軍を破った。伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い)。 戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚した(一揆軍は翌慶長6年4月に敗北)。この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増、すなわち計100万石の約束手形を反故にした。結果的に政宗への恩賞は、仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江と常陸に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。 仙台藩主 慶長6年(1601年)には仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。慶長19年(1614年)の大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。 仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台城下の城下町は全面的な開発であるため、のべ百万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。また、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)からエスパーニャ、ローマにまで派遣して海外貿易を試みているが、いずれも成果は実らなかった。 世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡宮や瑞巌寺などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛重吉を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻港から江戸へ東回り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。 2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、寛永13年(1636年)5月江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。 伊達政宗 平和像辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」 法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)。 墓所:FX の瑞鳳殿(ずいほうでん)。これは政宗の死後、伊達忠宗によって寛永14年(1637年)10月に建立された。昭和6年(1931年)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものである。 再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cm(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている。[6] 逸話 父輝宗は伊達家中興のFX と呼ばれる第9代政宗にあやかって、息子に政宗と名づけたという。[7]本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬された。 隻眼の行者、満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などが伝わっている。 正室・愛姫と、少なくとも七人の側室がおり、先述の五郎八姫など十男四女をもうけた[8][9]。 また、外国女性の側室もいた。政宗が出兵に従軍した際、捕虜として連れ帰った朝鮮人の女を側室に納めた。 衆道関係においては、小姓只野作十郎(只野伊賀勝吉)へ宛てた書状が残されている。ちなみに作十郎と勝女姫(側室)は実の姉弟(多田吉広の子)である。同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子重綱に対しても、大坂の陣出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に、「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。 政宗は正室・愛姫との間にもうけた嫡出の次男忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・猫御前[10])との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせなかった[11]。 摺上原の戦いの後、政宗が先物取引 に入城する際、戦勝を祝って一族の伊達重宗が即興で「音もせで 茅野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれかからぬらん」と歌った。これが後に結婚式などのおめでたい席で歌われることがある東北民謡「さんさ時雨」の元歌になったと言われるが、俗説であり事実ではない。福島県北部と宮城県では、現在でも結婚披露宴等の祝いの席ではさんさ時雨が歌われるが、一方、福島県会津地方ではさんさ時雨を歌うとひんしゅくを買うことがある。 大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には二種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。[12]但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。 政宗は朝鮮出兵に同行していない説があるが、俗説であり事実ではない。前述の朝鮮人側室とともに、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した松島、瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている。 政宗は家康に従って後の天下取りの機会をうかがうことを優先し、旧領である上杉領を侵略し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫した。 最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出したと言われるが定かではない。しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたと言われる。 大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望をあきらめざるをえず、領国経営に努めたようだが、この説は、後述の史料(政宗の野望説)などから否定されることも多い。 政宗は徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想を立てていた。 大坂夏の陣の際に、5月7日船場口で伊達勢の前方に展開していた神保相茂隊が明石全登隊の奇襲を受けて全滅したが、政宗による味方討ちではとの風聞が立った。政宗は、神保隊が明石全登隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分したと主張した。この事件は、幕府が最終的に伊達家の見解を追認して決着したが、事件直後から様々な興味と憶測を生んだ(詳細は神保相茂の項を参照)。 砂金常房(砂金貞常の嫡男)は大坂の役で、軍令違反を起したが咎められず逆に一族に列したことなどから落胤ではないかとの説もある。 下の世代の徳川家光からは非常に尊敬されていた。政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう[13]。幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇するFX を超えている。 将軍の前での脇差帯刀を許されていた。側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという[14]。 二条城へと参内する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。 政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いにきた。政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。 第3代将軍・徳川家光が鷹狩に没頭し、下宿を頻繁に行うのに困った家臣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。 黒脛巾組という不動産 を創設し、伊達家の諜報活動・特殊工作を行なわせて敵を攪乱したり、情報収集を行なったりしている。 実戦経験がない将軍家光はしばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。ある日、政宗と佐竹義宣を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。 遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。政宗の長女の五郎八姫は一時期キリシタンだったことがある。 養生法が変っていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。