リシュリューは次に、テュレンヌをアルクール伯アンリ・ド・ロレーヌ(1601年-1666年)指揮下のイタリア遠征(1639年-1640年)の任務につかせた。1639年11月19日、彼はルート・ド・キエルの戦いと呼ばれる有名な後衛作戦で勝利した。これは冬期のトリノ城塞への再食糧供給の間に起こり、フランス軍とカリニャーノ公トンマーゾとの間で争われた。1640年、アルクール伯はカザーレ・モンフェッラートを救い、城塞内にフランス軍別働隊が立てこもる間に、トリノに立てこもるカリニャーノ公軍を包囲した。後者の包囲線は持ちこたえ、カリニャーノ公軍が9月17日に降伏させられる間、アルクール伯の連隊が退却を強いられ始めると同時に第4部隊が包囲した。今や陸軍中将となったテュレンヌは、これら複雑な作戦が好ましい結果を達成するのに主要な役回りをした。彼は、1641年の遠征で自身も戦い、
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、チェヴァ、モンドヴィを占領した。
1642年、テュレンヌはルシヨンを征服したフランス軍の副司令官を務めた。この時にリシュリューは、テュレンヌの兄ブイヨン公フレデリックが連座していたサン=マール侯が企んだ陰謀を発見している。
フランス元帥
フランス王家とスダンの公爵家(principality)の関係は、テュレンヌの初期の経歴に顕著な影響を与えた。時にはブイヨン公家を懐柔するために彼を昇進させる必要があったことは明らかだが、その一方で、
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やマザランに対抗する公爵家の企みのせいで、国王の側近たちは戦場におけるテュレンヌを全面的に信用することができなかったのである。その上、彼のプロテスタント信仰に対する強固な執着が、大臣とテュレンヌの関係において困難な要素を成していた。
リシュリューはそれにもかかわらず、1643年にカリニャーノ公(対立してフランス側についた)指揮下のイタリアでの戦闘をテュレンヌを預けた。彼は、その年の終わりにフランスへ呼び戻される前に、数週間でトリノを落とした。12月19日にフランス元帥に任命され、すぐにアルザスへヴァイマル軍(ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル軍の連隊)再編成のため出発した。ヴァイマル軍は、11月24日から25日にかけてトゥットリンゲンの戦いの手痛い敗北を喫したばかりだった。この時、32歳になっていたテュレンヌは、これまでに4人の著名な指揮官の下で戦ってきた。組織的なオラニエ公、激しい気性のベルンハルト、勇敢なラ・ヴァレット枢機卿、頑固で抜け目のないアルクール伯、その誰もがテュレンヌの形成に貢献した。
大コンデ再編成の任務を終え、テュレンヌ元帥はブライザハにおいてライン川を横断する、1644年の作戦を開始した。ほぼ同時にアンギャン公(のちの大コンデ、コンデ公ルイ2世)指揮の軍がテュレンヌ軍と合流した。王家に連なるアンギャン公は、フランス=ヴァイマル連合軍の総司令官となった。三十年戦争を終結させた4つの有名な戦いがある。8月の、死にものぐるいのフライブルクの戦い(対フランツ・フォン・メルシー指揮バイエルン軍)は、フランスがフィリップスブルク包囲戦に勝利をおさめた後の最初の遠征の第一の戦いである。敵が降伏する前にアンギャン公は撤退し、指揮官としてテュレンヌを残した。彼は強固な前方移動をもって1645年の遠征を展開したが、メルシーは驚いて5月2日にマリエンタールでテュレンヌ軍を打ち負かした。アンギャン公が再度フランス軍を率いて前線へやってきた。テュレンヌ軍は、スウェーデン軍とヘッセン=カッセル方伯軍から分遣隊の到着を得て、相当な増援隊を獲得した。スウェーデン軍はすぐに立ち去ったが、フライブルクよりさらに手強い戦いにおいてバイエルン軍と相まみえた時、アンギャン公は2万の兵を指揮していた。フランス軍はメルシーを戦死させ、8月3日のネルトリンゲンの戦いで決定的にバイエルン軍を打ち負かした。病にかかったアンギャン公はその後すぐ、フランス軍の司令官にテュレンヌを任命して自身は戦線から離脱した。テュレンヌは再度大規模に結集した皇帝軍に対しとどめを刺さなかった。しかし、遠征はテュレンヌがトリーア攻略において戦勝の輝きを得たことで終結した。1646年、彼はさらに決定的な戦勝を獲得、そしてバイエルン軍からオーストリア軍が離れたことにより、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世は和平を余儀なくされた(署名したのは1647年3月14日)。
1647年、テュレンヌは神聖
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の弱体化した軍へ攻撃することを申し出たが、マザランは彼を代わりに対フランドル戦へ派遣した。この事でフランスは神聖ローマ帝国軍を叩く機会を失っただけでなく、何ヶ月も給料をもらっていなかったヴァイマル軍の間に深刻な反抗が起こった。テュレンヌは見事な機転で不満を抱く連隊の処置し、少々の流血事件があったもののヴァイマル軍を元通りにし、事件を終結させたのだった。テュレンヌはそしてルクセンブルクへ進軍した。しかしすぐにライン戦線へ転戦するよう命令を受けた。1648年、バイエルンは再びオーストリアと同盟を結び連合軍を組織したのである。テュレンヌと配下のスウェーデン軍との連合軍は、目を見張るような戦績を収め、5月17日のツスマルシャウゼンの戦いの決定的な行動で最後を飾った。軍はその結果として、さらにしっかりとした休戦条約が締結されるまで、火戦と白兵戦でバイエルンを疲弊させた。この破壊は多くの現代の歴史家が非難するものだが、当時の戦時の精神と戦闘行為で許された状況よりも過酷な手法がとられたわけではない。
1648年のヴェストファーレン条約は、フランスに束の間の平和をもたらした。しかし、すぐにフロンドの乱(1648年-1653年)が勃発した。テュレンヌの戦争中に犯した行為の一部が、反乱派に対する彼の賛同よりさらに鋭い批判を巻き起こした。ヴァイマル軍は司令官であるテュレンヌに従うことを拒み、彼は南部ネーデルラントへ逃れざるをえなかった。彼はそこに、フロンドの乱第1期を終わらせたルイユの和議(1649年年3月)が締結されるまでとどまった。2期の戦いはコンデ公らが1650年1月に捕らえられたことで始まった。コンデ公とともに捕らえられる計画のあったテュレンヌは再び逃亡し、ロングヴィル公爵夫人アンヌと組み、コンデ公、その弟コンティ公アルマン、ロングヴィル公の目的のためにスタネイを獲得した。フロンドの乱第1期も2期もアンヌへの愛情がテュレンヌの行動を支配していたとみられ、
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公らのためスペインの援助を得ようとした。この戦いでテュレンヌは、ルトルにおいて2、3の逆転の一つを被った(1650年12月15日)。しかし、2度目の対立は同じ年の早い時期に、王党派の瓦解とコンデ公らの釈放で終結した。
フロンドの乱とルイ14世時代
テュレンヌは和解して1651年5月にパリへ戻った。しかしすぐに騒動が持ち上がった。コンデ公が再びフランス南部で反乱を起こしたのである。このフロンドの乱第3期で、テュレンヌとコンデ公は互いに対立した立場にあった。テュレンヌは王軍を指揮し、コンデ公は反乱派とスペイン連合軍を率いていた。テュレンヌは1652年3月28日、ジャルジョーで若い兵士の勇猛さ見せつけ、4月7日にジアンでベテラン将軍の手腕と猛々しさを見せつけた。彼は実質的にサントノレ・フォーブールの戦い(7月21日)で内戦を打ち砕き、10月21日に再びパリを王軍が確保した。彼はなおもコンデ公とスペイン軍との取引を必要としていたが、スペイン系フロンド反徒の戦局が長引いたことが、双方の側に、系統立った指導力を見せるための広い視野を与えた。1653年、テュレンヌは有利になった。コンデ公がロクロワだけを獲得する間に、彼はルトル、サント=ムヌウ(Sainte-Menehould)、ムーゾンを攻略した。1654年の短期遠征で再びフランス軍に有利となった。7月25日、王軍はアラスでスペイン軍を打ち負かしたのである。1655年、フランス軍はさらなる領地を得たが、1656年にテュレンヌはヴァランシエンヌで、彼がアラスでコンデ公を打ち負かしたのと同じやり方で、敗北を喫した。戦争は、テュレンヌがダンケルク近郊のデュヌの戦いで勝利をおさめたことから1657年に終結した(この戦いには、当時同盟関係にあったイングランド護国卿オリヴァー・クロムウェルから部隊が送り込まれていた)。1658年にその他の戦勝した遠征により、1659年のピレネー条約へとつながっていく。
ルイ14世1661年に
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が死に、ルイ14世は自身の手で親政を開始した。彼は最初にテュレンヌをフランス王軍の大元帥とした。もしカトリックに改宗するならテュレンヌのため、王は1627年に廃止されていた『フランス宮内長官』(Constable of France、フランス語:connetable of France)職の復活を打診していたが、テュレンヌはこれを辞退した。両親ともにカルヴァン派で自身もプロテスタントの教育を受けていることから、1639年にリシュリューが申し出た彼の姪の1人との結婚も断っていたし、マザランから持ち出された彼の縁者との結婚依頼も拒んでいたのである。
1652年、テュレンヌは、深く慕っていたプロテスタントの元帥フォルス公の娘、シャルロット・ド・コーモンと結婚した。しかし彼は2つの敵対する陣営の中で、キリスト教教会の不和を心から深く嘆いていた。彼は常に、多くの意見の異なったり押さえきれない一派の影響を信用しなかった。