明の大軍が南下することを察知した日本軍は冬を前に迎撃体勢を取るために慶尚道から全羅道にかけての朝鮮南岸域へ自主後退をした。日本軍が撤退すると李舜臣の水軍も明・朝鮮陸軍と共に朝鮮南岸へ再進出することができた。李舜臣は朝鮮南岸西部にある古今島を拠点とし、そこに陳リンが率いる明水軍が合流した。
1598年、明・朝鮮軍が日本最西端の拠点である小西行長等が守る順天城を攻撃しだすと、李舜臣は明水軍の指揮下に入って水陸共同の順天攻撃作戦に参加し同時に順天城の海上封鎖を行った。しかし、
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で明・朝鮮軍は損害を出しつつ苦戦し、厭戦気分が蔓延して攻撃は頓挫、海上封鎖を解いて古今島に後退した(順天城の戦い)。
秀吉の死によって日本軍に退却命令が出ると小西行長は明・朝鮮陸軍との間に講和を成立させ、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出し海上封鎖を実施、小西らの撤退を阻んだ。そのため今度は明・朝鮮水軍と休戦交渉を行い明水軍の内諾を取りつけたものの、李舜臣はそれを肯んじなかったため依然順天城に足止めされることとなった。
順天城の海上封鎖のために
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軍が脱出不能と知ると日本側は島津義弘等が急遽水軍を編成して救援軍を派遣した。李舜臣はこれを察知し、明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて島津水軍を露梁海峡で迎撃した。
この露梁海戦では夜半からの戦闘が長時間続き、
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の島津水軍は苦戦したが混戦の中で李舜臣が戦死し、他に明水軍副将を初めとする明・朝鮮水軍の主たる将が多数戦死し大きな被害を出したため、後退する島津水軍を追撃することは出来なかった。
一方、孤立していた小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が解けたので海路脱出に成功し無事日本へ帰国することができた。李舜臣はその死後に忠武と謚(おくりな)された。
韓国ソウルの官庁街である世宗路には、李舜臣の銅像が建てられている。これは軍事政権下の力の象徴として設置されたと言われる。なお、外にも釜山龍頭山公園や[木浦]など、数多くの朝鮮半島南海岸に李舜臣の銅像が建てられている。
言説
従来、
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軍の補給不足を李舜臣の補給路遮断によるものと解釈されることが多かったが、補給不全が生じていたのは内陸部に進出した部隊に対してであって、全戦役を通じて九州から釜山までの海路における物資や人の流通が決定的な補給不全を起していたことはなく、したがって日本軍の補給路が李舜臣率いる朝鮮水軍によって遮断されたと解釈するのは正しくないとする説も近年提出されている。この説に拠れば、日本軍の食糧不足の主な原因として、緒戦の朝鮮軍が想像以上に弱体であったため奥地へ急進してしまったこと、和戦の曖昧な侵攻による食料の準備不足、現地が貧しく調達を日本の常識で想定してしまったこと、義兵や流民による輸送路襲撃の激化などが挙げられている。そして、これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。
「東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると発言した」とする言説については、「東郷が公の場でそのような発言をしたという記録はなく、現在のところ東郷と知己であったという韓国人からの伝聞[1]以外の事例は見いだすことが出来ないため、これが事実であったとしても、東郷の韓国人へのリップサービスであったものを、戦後の韓国における民族主義の高まりと共に民族の
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として持ち上げられた李舜臣賛美のために誇張して流布されたものである可能性が高い」との指摘がある。また、日本海軍が海軍権益拡大(軍艦建造と組織の拡大)のため李舜臣を引き合いに出して朝鮮出兵の敗因として宣伝したり、戦後独立した韓国北朝鮮で抗日のシンボルとして利用されたことにも留意する必要があるとする研究者もいる。
マウリッツ・ファン・ナッサウ(オラニエ公マウリッツ、Maurits van Nassau-Siegen, Prins van Oranje, 1567年11月13日 - 1625年4月23日)は、オランダ総督。オラニエ公ヴィレム1世の次男で、父の死後、スペインとの八十年戦争において中心的な役割を果たした。
死に臨んで、「2プラス2は4である。」ということを自己の信条にしたほどの合理主義者であったとされる。また、自らの軍隊に徹底した訓練を行うとともに、そのマニュアル化を行った。これがヨーロッパ各国の軍隊に多大な影響を与えたことから、「軍事革命」とも評価される。
生涯
マウリッツは1567年にドイツ
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のディレンブルクで生まれた。母アンナはザクセン選帝侯モーリッツの娘であった。祖父の名を取ってマウリッツ(モーリッツ)と命名され、父方の叔父ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の元で育てられた。
1584年の父オラニエ公ヴィレム1世の暗殺後、1585年に
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州とゼーラント州の総督となった。その後、1597年までに再び北部7州をまとめ上げた。教養人でもあった彼は、古代ローマ帝国時代の軍事に関する文献を踏まえつつ、自らの軍隊に独自の教練を施した。こうして軍の強化に成功し、スペインとの八十年戦争を優勢に進めた。
深刻な財政難に陥っていたスペイン・オランダ両国は、次第に戦争を継続することが困難になっていった。1608年よりハーグ(デン・ハーグ)で和平交渉が行われ、最終的には1609年にアントウェルペンで休戦協定が成立した。
父が暗殺されたように、オランダ内部では絶えず政争が続いていた。キリスト教改革派であったマウリッツは、寛容派に属した政敵オルデンバルネフェルトを処刑して自らの政権を維持した。1625年、マウリッツはハーグで死去した。生涯独身を通し、嫡子がなかったため、家督と地位は異母弟フレデリック・ヘンドリックに受け継がれた。
「軍事革命」
マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン(叔父ヨハン6世の子)とともに行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にも、その動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また、訓練を通じて、本来傭兵の寄せ集めでしかない軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。
ちなみにこれらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器の操作、火縄銃・マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す』、未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。
さらにマウリッツは、パイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦闘が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、三兵戦術の基盤を築いた。マウリッツが生きている間は、それでも名将アンブロジオ・スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たすことができた。
またマウリッツは将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、のちにバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ・アドルフに仕える者もいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。
加えてマウリッツは、軍隊にステヴィン、アローム等の優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。
日本との交渉
1609年(慶長14年)日本(江戸幕府)に進出したオランダ東インド会社はマウリッツをオランダ「国王」とする書簡を駿府で前将軍(大御所)徳川家康に提出し、朱印状による交易を認められた。以後、オランダ東インド会社はオランダ総督を「国王」とするフィクションを維持することになる。