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統虎は家老の小野鎮幸を総大将とし、1300余人の兵を率いて、鍋島3万2000の大軍を封じ、江上八院の決戦で一度は勝利を収める。後に本城である柳川城に篭城し、加藤清正の説得を受けて降伏・開城することとなる。島津義弘は国許へ帰ると、統虎から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。 江戸時代 関ヶ原後は改易されて浪人となる。その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、統虎はこれを拒絶した。そこで清正は、家臣にすることを諦め、食客として遇したという。しかし彼の実力をよく知っていた徳川家康からの熱心な引き合いは断り難かったようで、慶長8年(1603年)、5000石で幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として召し出され、まもなく陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。翌年には同地で1万5500石、慶長15年(1610年)には9500石の加増を受け、最終的に3万5000石を知行し、この頃から宗茂と名乗っている。 大坂の陣のとき、家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという、そして大坂夏の陣は将軍・秀忠の麾下に列してその警固を担当し、毛利勝永と交戦している。そして元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳河に10万9200石を与えられ、大名として完全に復帰を果たした。また、戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明、丹羽長重らとともに、秀忠から将軍職を譲り受けた家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。(なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の茶会や諸大名の屋敷が完成した際の披露会などに頻繁に将軍と共に随伴している。その為、国元にはほとんど帰れず、特に忠茂に家督を譲った後は、江戸に屋敷を構えて定住し、その傾向は一層強くなり、本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たすという役割の方が強くなっている。) 寛永14年(1637年)には島原の乱にも参陣し、戦略面の指揮、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せた。諸大名は武神再来と嘆賞する。翌年、家督を忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。俗名の宗茂がそのまま入っているのは、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、変えるに変えられずそうなった、との逸話が伝わる。 正室のァ千代を弔うために、山門郡瀬高上荘の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である応誉上人を招き、良清寺が創建された。 人物 『トラック買取 』では、宗茂のことを『人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり』と高く評価されているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な包茎 である。 宗茂は軍法についてこう語っている。 「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない 」 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ 」 関ヶ原合戦後の浪人時代は、京都で脱毛 ともども乞食同然に身を落とし、その日の食べ物にも難儀したという話がよく知られるが、実際は有力商人や旧家臣団、加藤清正や島津氏らの支援の下、それなりの客将として支援を受けており、大名時代に比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日の食事に困るような生活ではなかったので、後世に藩祖としての苦労を際立たせる為に誇張された話とされている。 文武両道の名将で、剣術は丸目長恵から文禄5年(1596年)10月に免許皆伝を受け、弓術は天正18年(1590年)に尾村連続、慶長6年(1601年)10月には中江新八、慶長7年(1602年)には吉田茂武から日置流の免許をそれぞれ受けている。また、連歌・茶道・蹴鞠・狂言などにも長けていたとされる。中でも茶道は細川忠興からも一目置かれていたようで、忠興は子の細川忠利に対して、数寄の事は宗茂を見習う事と書き記している。また、忠興から宗茂が借金をして茶器を購入したり、逆に宗茂の茶器を忠興に貸したりという文書も残っているので、茶道を通じてかなり両者の関係は親密であったと思われる。 李 舜臣(り・しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年4月28日 - 1598年12月16日)は、文禄・慶長の役時の李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、??)。朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いに活躍し、日本軍を苦しめた。その功績から韓国では国民的英雄となっている。 前半生 京畿道開豊郡の粗大ゴミ の出身で、漢城(現ソウル)の乾川洞(現中区乙支路)に生まれた。父は李貞。4人兄弟の三男。兄弟の名前は、上から、羲臣、尭臣、舜臣、禹臣。中国の伝説上の帝王の名前の一字をとって、名付けられている。後に、李氏朝鮮の領議政(首相)となる三歳年上の柳成龍も、同所で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲だった。李舜臣は、幼い時から勇猛果敢な性格だったが勉学は苦手であったようである。このため、20歳すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けることにした。しかし、試験では、落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは1576年、32歳のときであった。李舜臣の母の実家がある忠清南道牙山市に、李舜臣の功績を称える「顕忠祠」があるが、そこに展示されている資料には、李舜臣が武科に「丙科合格」したことが記述されている。李舜臣は、下士官として朝鮮各地を転戦したが、上司との折り合いが悪く、罷免されたり、白衣従軍(一兵卒として従軍すること)を命ぜられたりしている。李舜臣が不遇な時には、幼馴染で同派閥の柳成龍が救っていた。そして文禄の役の前年である1591年に、柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)に大抜擢される。当時、柳成龍は右議政(副首相)の地位に出世していたのである。だが、何の監視カメラ も無い李舜臣の大抜擢は、先任の水軍節度使である元均などの激しい反感を買うことにもなった。 文禄の役 豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、慶尚道の水軍は壊滅したが残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮した。緒戦では釜山西方の支配領域拡大のために展開していた日本軍後方諸隊の海上移動のための輸送船を数次に渡って攻撃し、成功を収めた。 攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に平壌・咸鏡道などへ展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の輸送船攻撃が活発になると脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆をセミナー 方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。 しかし、単独で抜け駆けをした脇坂水軍を李舜臣は囮を使って閑山島海戦で撃破し、続いて援護のために安骨浦に進出し停泊中の加藤・九鬼水軍を襲撃した。水軍による海上戦闘で不利を悟った日本軍は南岸域の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備え、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更した。この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は釜山浦攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した。 休戦期 1593年、これまでの功績を認められた李舜臣は無垢フローリング 統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。また李舜臣と元均はお互いに讒言を行うなど不和であったため、朝鮮朝廷により元均が陸軍へ更迭された。李舜臣は彼の日記の中で、「天地の間に、元均ほど凶悪で常軌を逸した人はいない」とまで述べている。この後、慶長の役の開始準備のため加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らし、朝鮮朝廷は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように李舜臣に攻撃を命令した。しかし、李舜臣はこれを日本軍の罠と考えて独断で攻撃を実施しなかったため、朝鮮朝廷内部では抗命を咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され拷問を受けて一旦は死罪を宣告されたが、鄭琢の取りなしで一兵卒として白衣従軍を命じられた。(柳成龍「懲録」) 慶長の役 1597年に李舜臣の後任の水軍統制使元均が水軍単独での攻撃命令を嫌がりながらも遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し、戦死した。かわって水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めたのが李舜臣である。李舜臣が再任された時は、朝鮮水軍には僅か12隻の戦船(板屋船)しか残っていなかったと言われる。日本陸軍によって全羅道や忠清道が掃討されつつある中、壊滅直後の残存艦隊を収容しながら後退した李舜臣の艦隊は、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡で日本水軍を誘導し、突入してきた日本水軍の先頭部隊に一撃を加えて勝利した(鳴梁海戦)。しかし後続の日本水軍は強大なため、海戦の夜には戦場海域からの後退を行い、日本水軍の侵攻を許した。同時期に全羅道西岸拠点が次々と日本陸軍によって制圧されたために李舜臣は拠るべき泊地を失って後退を続け、全羅道の北端まで退却し(当時の水軍は長期の洋上行動はできず沿岸や島嶼に順次泊地を求めながら移動するものであった)、代わって日本水軍が進出して全羅道西岸の制圧を実施して姜コウや鄭希得などの多くの捕虜を得た。