■FX用語 消費者物価指数

朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。 料理が趣味[15]。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、used truck 自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を命期集に残している。仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。 岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。 料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと言う。 喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた[16]。遺品に、愛用のキセルがある。 隙のない印象の政宗であるが、酒にだけは滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。 映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜をモチーフにデザインされた[17]。 大悲願寺13世海譽の元で弟子として在山していた弟・秀雄のもとを政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望し[18]貰い受け、臥龍梅を大悲願寺に贈った。 明治天皇は政宗の事を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いをはせて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである」と評している。[19] 宮城県宮城郡松島町にある伊達光宗の菩提寺円通院には、伊達一本締めという仙台藩祖・伊達政宗ゆかりの一本締めが伝承されている。「いよ〜っ、パパパン!、いよ〜っ、パン!」という「3」と「1」の拍子の組み合わせが「三国一」を表しており天下を狙った政宗の夢が込められ、慶長遣欧使節の支倉常長もこの”伊達一本締め”で見送られ、徳川政権が安定してからは秘めた意味が露見しないよう姿を消したと言われている。そのため資料が一切残っておらず、伊達家所縁の円通院に代々人づてに伝えられていた。[20] 政宗の野望 政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。 秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた芦名家領土の「経略多端」の故と弁明している。佐竹氏一派と対抗し、同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉を倒そうとした。秀吉は、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。 葛西大崎一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙った。 関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。 政宗の裏切りに対して家康は報復し、刈田郡のみの加増にとどめた。これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類である。 政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の一反三百六十歩で計算されたものという説があり、これが正しいとすると豊臣政権において定められた一反三百歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。政宗は関ヶ原以降、不用品回収 を知行として与える方式を取りら各領主に開墾を奨励、仙台平野の新田開発を推し進めた(1628年には、白石城主片倉重長が新田開発を行い千石相当の石高を新たに獲得している)。この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した。[21]政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。最盛期には表高の1/3にあたる二十万石もの米が江戸に出荷されていた。1732年(享保17年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。なお、このときの収益は約五十万両にものぼったという。この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1.7万石)、隠岐6万石(0.5万石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。[22] 政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。 「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン粗大ごみ に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた」 支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。 また、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたと言われている。 「元和二年大坂御陣落去以後。整体師 にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候」(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)。 「大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』より抜粋)。 しかし、政宗と結んでいた大久保長安が死後に一族もろとも処罰され(大久保長安事件)、娘婿の松平忠輝が改易され、スペインとの同盟が不調に終わり、倒幕は実現されなかった。 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。 寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。 徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠はused trucks を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。 「年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候」(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)。 家光が「used truck for sale 」を自称したのは、政宗の助言によるものだったと言われている。政宗は軍略、野望ともに最も危険視されていた外様の代表格であるから、それを逆手にとり自ら大名筆頭として頭を下げる事で、幕府に対し有無を言わせない立場を確立した訳である。幕府、家光に対しては恩を売れるし、またその他大名家に対しても伊達の強さを印象づける形になり、どう転んでも損のない大胆な戦略という事になる。 なおその家光の就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものである。これに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。「文句があるならまず政宗が相手になる」といっているも同然で、いかにも政宗の好みそうな派手な演出であることが関与の可能性を感じさせる。 晩年の政宗は、『used trucks for sale 』という漢詩を残している。「馬上少年過(馬上少年過ぐ)、世平白髪多(世平らかにして白髪多し)、残躯天所赦(残躯天の赦す所)、不楽是如何。」というものだが、最後の句を「楽しまずんば是いかん」と読むか「楽しまず是如何に」と読むかで全く解釈が違ってしまう。政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われ、この辺は永遠の謎となっている。